BLOG 楕円紀行

About Koichi Murakami

我が恩師

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大学選手権のベスト4が出そろい、12月27日からは全国高校大会が開催される時期だが、今回は、我が恩師のことを書きたい。
12月23日、東大阪市の近鉄花園ラグビー場に温かな笑顔が広がった。全国大学選手権セカンドステージの早稲田大学対大阪体育大学のノーサイド後、大体大の坂田好弘監督の勇退セレモニーが始まった。スタンドへの挨拶を済ませた両校の選手がメインスタンド中央前に集まる。場内アナウンスは、次のようなものだった。
「大阪体育大学の坂田好弘監督が、この試合をもちまして、36年間の指導者生活にピリオドを打ちます。坂田監督は、同志社大学、近鉄、そして日本代表で活躍され、ここ近鉄花園ラグビー場でも、選手、監督として数々の名勝負を繰り広げてこられました。その労をねぎらい、両チームの選手より、花束の贈呈が行われます」
この花束贈呈は大体大の学生が発案し、早大側に「花束贈呈をしたいので、できれば、グラウンドに残って一緒に拍手をしてもらえないか」と打診した。すると、「我々も花束を準備します。できれば、一緒に記念写真を撮りましょう」という旨の返答があったという。大体大はキャプテンの蔵守選手が手渡し、早大はWTB中靏選手がプレゼンターとなった。なぜ、中靏選手だったのか。後藤監督が説明してくれた。「坂田監督のこと、知っているか?と聞いたら、1968年のオールブラックスジュニア戦で4トライした…と、すごく詳しい。そんなに知っているならと中靏に決めました」。中靏選手は集合写真でも、坂田監督の隣で微笑んだ。IRB(国際ラグビーボード)の殿堂入りも果たした世界のレジェンドであり、稀代の名WTBとの一枚は、生涯の思い出になるだろう。
その後のアフターマッチファンクションでは両校の選手達がひとつのボールにサインし、坂田監督に贈った。「感動しました。ラグビーをしていなかったら味わえなかったことでしょう。早稲田の選手達の雰囲気がすごく気持ちよくて、嬉しかったですね」。そして、感謝の言葉を伝えたという。「ありがとう。僕が現役時代の最後も、日本選手権で早稲田と戦いました。そのとき、国立競技場には6万人以上の観客が集まりました。もう一度、そういう時代が来るように、皆さんもラグビー発展のために頑張ってください」。

誰とでも分け隔てなく接する先生らしい最後だと思った。個人的な思いになるので、ここからは「先生」と書かせてもらいたい。先生は、ラグビーそのものを大切にする人だ。感動的な試合を見ると、「きょうは、ラグビーが勝った」と言った。ファンの皆さんには、「ラグビーをよろしく」と頭を下げる。1977年からの36年間の指導者生活で、練習を病気で休んだことは一度もない。ギャンブル、酒、たばこもやらず、ただひたすらラグビーに打ち込んだ。奥さんと息子さんは、その一番の理解者だ。選手としては、大学、社会人で何度も日本一になったが、指導者としては頂点に立つことはなかった。
それでも、大学選手権ベスト4が3度、12名の日本代表選手を育てた。高校時代は無名の選手を鍛え上げ、強豪チームを作ったことは評価されるべきだろう。1980年代にニュージーランドのグリッド練習を導入するなど、革新的なトレーニングもいち早く採り入れ、関西大学Aリーグに、ジュニア(2軍)リーグ、コルツ(3軍)リーグを設けることに尽力。多くの選手に試合機会を与えたことも書き記すべき功績である。
僕は1983年度から86年度まで大体大ラグビー部に在籍した。だらしない練習をしていると、よく叱られた。思えば、あの頃の先生は今の僕より若い。一緒にランパスしたこともあった。現役時代はよく分からなかったのだが、卒業後はラグビーに対する真摯な生き方に多くを教わった。知識の幅を広げたいと思っていろんな本を読み、そのことを先生に話すと、こう言われた。「それはいいことや。でもな、一つのことを突きつめたら、すべてが見えるってこともあるからな」。僕の人生を決定づけた言葉だ。
70歳になった先生は、今後の人生もラグビーへ捧げようとしている。関西ラグビー協会の会長として、ラグビー普及にまい進する覚悟だ。大体大と早大の選手が並ぶ花道を通って、先生は花園ラグビー場のフィールドを後にした。僕はその光景を、試合を中継したジェイスポーツの解説席で眺めることができた。ご苦労さまでした、という言葉を贈りつつ、とうてい越えられない師を持てた幸せをかみしめた。